0425 絶望しなくなった理由
24日、25日とライブに行った。
もう20年ほど通っているバンドだけど本命になったのはここ6年くらいのこと。
それは躁鬱だった時、毎日心の中が憎しみと絶望と苦痛に溢れて死にたくて仕方なかった私の救いになってくれたからだ。
ボーカルは自身の日記としてどろどろした汚い感情を歌詞に込め、生々しい痛みを歌い叫ぶ。
感情の塊のような人で嘘偽りのないナマモノだからこそ迫力がある。
同じ言葉でも経験のない人より同士の言葉の方が当然響くし、表現力が凄まじいアーティスト。
そんな絶望の底で苦しんでいる人が前に進もうとしている姿に勇気を貰って私も強く生きなければと思わせてくれる「無理のない希望」が支えになった。
私の場合だけど、鬱は無気力で感情が薄れる傾向に対し、躁鬱は怒りや憎しみ悲しみ絶望に火がつきやすかった。
疎外感が尋常じゃなく、他者も自分も全てが許せなくて全て消えろと思うことが多かった。
毎日本気で自殺を検討して死に場所と死ぬ方法を考えていた。
それは鬱の頃より衝動的で行動力が伴いやすい危険な状態だったと思う。
言うなれば鬱はエネルギーのない落ち込み、躁鬱はエネルギーを持て余した絶望。
だからこそこのバンドの曲にピタっと型がハマって救われた気がした。
躁鬱を寛解しても苦しみの絶頂にいた時の恩や残っている感覚でお慕いしていたけど、今は彼氏の存在を思うとどこか他人事のようであまり感情移入出来なくなっていることに気付いた。
表現力に惹かれる気持ちは変わらないしサウンドも格好いいしライブが楽しいのは間違いないんだけど「今の私にはこんな疎外感も絶望もないな」と。
実際の彼氏には未読無視されてばかりで音信不通だし、表面的に見れば「何か話しかけても逃げてしまうしちっとも彼女に向き合ってくれていない状況」だけど、私は彼と恋人同士であり繋がっていると信じていて、それが希望になっているのだと思った。
今音信不通なのも「彼に休息を与える意思あってこその私からの無連絡」が根底にあって、彼もきっとそれを分かっているから甘えているであろう状況で、私も彼が向き合う気持ちを持っていながらも出来れば甘えたいと思っているのも分かっていて、互いに余白に期待と甘えがあるからこそじゃないか。
今がたまたま少し気持ちが安定している時期なのもあるけど、それでも私は彼に対して常に夢と希望を見出だしているし、だからこそ踏ん張っている。
どんなに不安になっても寂しくなってもそれは揺らがないものな気がした。
繋がってるって信じることで救われてたのは私の方だったんだな。
でもそう考えたら彼にとってもちゃんと私は希望になれている気もしてきた。
普段どんなに苦しみの原因となってしまっても、自分のことを愛して何でも許してくれる存在って認識はあるだろうから、いざという時にその本質が際立つのかもしれない。
癒したいな。
彼の生きる理由になりたいな。
それにしても何を体験しても「もし彼氏が一緒に来れたら」を妄想してしまう。
初心者を誘うには色んな意味でハードルが高いライブだし彼と一緒に行くことはないだろうけど、私の見ている景色を共有したくなるよ。
いつか元気になってまったりおうちで過ごすのが当たり前の日が来たら、一緒にライブ映像見るくらいは出来るよね。
隣で興味なさそうにゲームしててもいいよ(笑)。
私の話を聞いて欲しい。
ねえ、ねえ。
話しかけたいよ。