1209 藁のようなカウンセリング
カウンセリングに行ってきました。
日差しを浴びて徒歩圏内のお散歩をしながら住宅街の戸建てのご自宅の一室へ。
カウンセリングを受けた経験は過去にたくさんあるけれど、ここはほんとただおばさまが身の上話を聞いてくれたって感じで、おばさま自身が鬱で辛かった時の話とかしだすし、分析とアドバイスが欲しかった私のニーズにはハマってなかったかなという感想。
病院と連携取ってない個人営業だしお値段設定が相場より安く手を出しやすかったというだけあって(60分6,000円)、期待に見合わないんだろうなとさして高望みはしていなかったのだけど。
なんせ鬱の相談じゃなくて鬱彼がいるサポートのしんどさの相談だから難易度は高いよね。
鬱のことはどうでもいいしもう分かり切ってるのよ。
思考力と分析力に自信があってある程度鬱の知識がある人はカウンセラーに学ぶことがあまりないんだろうなと何度目かの無駄さを感じて終わった🙃
助けて欲しかったのにな。
「あなたはもう自分で答えが出せているし実行出来ている」って言われて両者ともに今後継続してカウンセリングする必要ないねって結論🤷♀️笑
「今してることで十分だし全部分かってるみたいだから、ただ休んで」ってだけでした。
「彼に自分の苦しさを伝えないのは大正解」って言われたので、自信を持ってもう暫く無理するしかないんだな。
きっと私の問題は頭と心が結び付かないことにあって、このカウンセラーの技量ではそれを解決するアドバイスが出来ないんだと思った。
ただ、話しながら辛くなって泣いた一幕もあり、吐き出すって辛いんだなって再認識にはなった。
文章にするのと話すのって似て非なるもので、私は文章を書くことに慣れているのとタイピングしながら構造を考えてしまうから、自然とある程度まとまったものになる。
形状的にも感情的にも無意識に「整える」という行為をする。
それが良い時は勿論多いのだけど、口頭で思いつくままにあれもこれもとポロポロ吐き出すと1文の長さとか文脈とか考えず矛盾したことも出ていくし、声を発することで感情移入していくっていうのもあるんだなぁと。
そういう意味では機会を設けて良かった。
それに対して一言もなかったけどな!
あとは自分の症状を話したら「それは適応障害を越えて鬱の可能性ありますね」って言われてDAYONE!ってなったり🙃
記憶力と集中力が鈍ってきてる実感もある。
生きてく上で大きな障害になるレベルではないけど、凡ミス増加は病のせいだって判断がつくレベルになってきた。
何かしようとしたのに思い出せなくなることが最近増えていて、次に何したらいいんだっけ?が本気で分からなくて数分間以上真剣にフリーズしてしまうことが頻発しているのがなんだか情けない。
最近ずっとやりたいことが出来ていない。
明確に目標があって目の前に材料を準備してもスタートを切れない。
何か広げると片付けたくてもそのまま動けなくなって違う部屋の電気つけっぱなの気にしつつぼーっと座り込んで時間が過ぎる。
どうでもいいことはダラダラ出来るのに。無気力が加速している。
うまくいかないことがあると私は何でも自責して極限まで追い詰めるんだけど「それは鬱を経験する前から?経験してから?」って言われて、おぼろげな記憶に後者かもしれないと気付いたのも発見かな。
寛解しても完治とは違って元の性格には戻れず根付くものがあるのは知ってたけどこれなのか。
イメージ的には鬱の扉はいつでも少し開いてすぐ側にあっていつでもその奥へ進める環境が出来ていて。
なるまではその扉はちゃんと鍵が閉まっていて、目にしても通過するだけの景色だったけど、今は足元が揺らげば吸い込まれそうになる感じ。
来週月曜日までは5連休なので正当にのんびり🥳
明日も何もしなくて良い安心感が今はとてもとても嬉しい。